「右大臣」や「左大臣」という言葉は聞いたことがあっても、具体的な違いまでは知らない…という方も多いですよね。とくに学校の授業で一度聞いた程度だと、どちらが偉いのか、どんな仕事をしていたのかまではなかなかイメージしづらいものです。
また、平安時代の政治は現在とはまったく仕組みが違うため、「そもそも当時の政治ってどうなっていたの?」という疑問も湧きやすいところです。
ここでは、歴史がちょっと苦手な方でも読みやすいように、当時の政治のしくみや背景をやさしく補いながら、右大臣と左大臣の違いをもっと深く、ゆっくりていねいに解説していきます。
初めて触れる方でもスッと理解できるよう、身近なたとえやイメージも交えつつ進めていきますので、安心して読み進めてくださいね。
まず結論!右大臣と左大臣の違いをカンタンに解説

最初にいちばん大事なポイントからお伝えします。
右大臣と左大臣はどちらもとても偉い役職ですが、基本的な序列は「左大臣 > 右大臣」です。これは、当時の価値観や陰陽道の考え方で「左の方が上位」とされていたことが影響しています。
さらに言えば、当時の人々にとって“左右”は単なる方向ではなく、吉凶や格式にもつながる非常に重要な概念でした。そのため、政治の世界にもその価値観が強く反映され、役職の序列にも深く根づいていったのです。
右大臣と左大臣はどちらが偉いの?
結論はシンプルで、左大臣の方が右大臣より上の立場です。これは形式的な序列だけでなく、実際の儀式での並び順や、公式の会議での席次にもしっかりと反映されています。
たとえば、重要な儀礼の場では左大臣が天皇に近い位置に座ることが多く、それだけ重要視されていたことがわかります。また、左大臣は政策決定に深く関わることが多かったため、政治的な影響力も右大臣より強い場合が一般的でした。
ひと言で言うとこんな関係
ざっくりとしたイメージでは、
・左大臣=政治の方針を決める“最高クラスの補佐役”
・右大臣=その方針にそって政治を動かす“運営・調整役”
という関係だと考えるとわかりやすいです。
ただし、どちらも国家運営の中心に位置する非常に重要な役職であり、単純に上下だけでは語りきれない深い関係があります。
ときには右大臣が優秀で、政治の実権に近い存在として活躍した例もあるため、「上下関係はありつつも互いに支え合うパートナー」のような関係、とイメージするとさらに理解しやすくなります。
平安時代の政治の仕組みをやさしく理解しよう

右大臣と左大臣の違いを知るには、まず当時の政治の流れを少しだけ押さえておくと理解しやすくなります。平安時代の政治は現代のように省庁が細かく分かれていたわけではなく、一つの大きな機関を中心に国の運営が行われていました。
そのため、役職ごとの役割や序列がとても重要視され、権力関係もはっきりと表れていたのです。こうした背景を知ることで、右大臣と左大臣の立ち位置もさらに理解しやすくなります。
太政官とは?平安時代の「政治センター」
平安時代の政治は、「太政官(だいじょうかん)」という機関を中心に動いていました。この太政官は、現代でいえば“政府の本部”のような存在で、ほぼすべての重要事項がここで扱われていました。
具体的には、法律の制定や国家の行事の運営、人事に関する決定など、国の根幹に関わるさまざまな問題が話し合われていた場所です。また、天皇の意向を形にする役割も担っていたため、太政官は政治の中心そのものといえる重要な機関でした。
主な役職の並び
おおまかな序列は次のようなイメージです。
・太政大臣:最上位の役職で、国家の最高責任者に近い存在
・左大臣:太政大臣に次ぐナンバー2で、重要な政策決定に深く関与
・右大臣:左大臣とともに政治を支える重要ポストで、実務面での運営に強く関わる
・中納言・参議:会議に参加し議論に加わるメンバーで、政務の補佐役
このように、太政官内には明確な階層構造がありました。その中でも右大臣と左大臣は、政治の中心に立ち、国を動かす重要な役職として非常に大きな影響力を持っていたことがわかります。
右大臣とは?その役割と重要性

ここからは、それぞれの役職についてもう少し詳しく見ていきます。まずは右大臣からです。
右大臣は、平安時代の政治の中で非常に重要なポジションを占めており、単なる補佐役ではなく、多方面にわたって国家運営を支える実務の中心的存在でした。
そのため、右大臣の役割を深く知ることで、当時の政治の動きがより立体的に見えてくるようになります。
右大臣の基本的な役割
右大臣は、政治を実際に動かす「運営・調整役」のような立場でした。左大臣と協力しながら、法律・人事・儀式など、国家が日々動いていくために欠かせないさまざまな事務をこなしていきます。
たとえば、新しい法律を施行する際には、関係部署への連絡や具体的な運用方法の調整、人事異動の決定など、実務的な調整が必要になりますが、こうした場面で大きな力を発揮していたのが右大臣です。
また、儀式や朝廷行事の運営にも深く関わっていたため、宮中の秩序を保つ役割も担っていました。さらに、左大臣が政策決定の中心を担う一方で、右大臣はそれを実際に“動かす”ための指揮を執る存在として、バランスの取れた政治運営に欠かせない位置づけだったといえます。
どんな人が右大臣になれたの?
右大臣に選ばれるのは、ごく一部の名門だけでした。とくに、藤原氏の有力な家系や、源氏・平氏など、実績のある名門出身者が多かったとされています。
しかし、右大臣になるには家柄だけでなく、政治的な手腕や人望、経験も求められました。若い頃から地方官や中級官職での経験を積み、実務能力を認められて徐々に出世していくケースが多かったようです。
つまり、右大臣は名門の中でも特に「実務に強く、信頼される人物」である必要があり、選ばれた人はまさにエリート中のエリートでした。
また、右大臣は天皇や左大臣から厚い信頼を得ている人物であることが多く、政治的派閥のバランスを取るうえでも重要な存在でした。こうした背景から、右大臣は表舞台でも裏舞台でも重要な役割を担い、平安時代の政治を動かす中心人物の一人であったことがよくわかります。
左大臣とは?右大臣との違い

次に、右大臣より一段上の役職とされる左大臣について見ていきます。左大臣は古くから特別な格式を持つ存在として扱われ、朝廷の中でも中心的な立場を担っていました。
そのため、右大臣とは役割が似ているようでいて、実際には責任範囲や権威の高さに大きな違いがあります。ここからは、左大臣についてより深く、イメージしやすい形で解説していきましょう。
左大臣の基本的な役割
左大臣は、右大臣よりも上の立場にある「政治の最高クラスの責任者」です。国家の重要方針を決める際には中心的な役割を果たし、政治の方向性を左右する存在でした。
とくに太政大臣がいないときには、左大臣が実質的なトップとして国の中心に立ち、政策決定や重要儀式の監督など、多岐にわたる重要任務を担いました。
また、朝廷内の調整や他の高官たちとの意見の取りまとめにも深く関わり、その影響力の大きさは右大臣を上回っていたと言われています。まさに「政治の屋台骨」と呼べる存在だったのです。
なぜ左の方が上位なの?
当時の考え方では、「左」は日の出の方向、「右」は日の入りの方向とされていました。日の出は新しい始まりや明るさの象徴とされ、「左の方が尊い」「左が上位」という価値観が生まれ、それが役職の序列にも反映されたと言われています。
さらに、陰陽道の思想においても“左=陽(明るい・強い)”、“右=陰(控えめ・補助的)”という位置づけがなされていたため、朝廷では自然と左側に格式の高い人物が配置されるようになりました。
この思想は宮中儀式や建物の構造、衣装の色にまで影響しており、平安時代の価値観そのものが「左を重んじる文化」として強く根づいていたことがわかります。
右大臣と左大臣の違いをわかりやすく整理

ここまでの内容を、あらためてわかりやすく整理しておきます。ここまで読んできて「なんとなく違いはわかったけれど、結局どういうイメージなの?」と思った方に向けて、要点をさらに丁寧にまとめ直します。
視点を少し変えて見ていくことで、両者の役割や立場の差がよりクリアに理解できるようになります。
序列・権力の違い
基本の序列は「左大臣 > 右大臣」です。これは単なる形式的な上下ではなく、実際の政治の場面においても明確に影響していました。
儀式での着席位置、政策決定における発言力、宮中での周囲からの扱われ方など、多くの面で左大臣の方が“格上”として扱われていました。
もちろん右大臣も非常に高い地位を持ち、重要な役割を担っていましたが、「国家運営の中心により近いのは左大臣」という構図が基本にあったのです。こうした序列は、平安時代という格式を重んじる社会において、非常に強い意味を持っていました。
仕事の違い
左大臣は「政治の方針を決める側」、右大臣は「その方針に沿って物事を動かす側」というイメージです。もう少し具体的に言えば、左大臣は国家の大きな方向性を示す“司令塔”のような役割で、右大臣はその指示を実際に形にする“実務指揮官”としての側面が強い役職でした。
ただし、時代や人物によっては、右大臣が非常に優秀で、実質的に政治を動かす中心人物となっていたケースもあります。
とくに権力者と深い関係を持つ右大臣が登場した場合は、序列以上の存在感を発揮することもありました。この柔軟性が、当時の政治の面白いところでもあります。
家柄・任命基準の違い
左大臣には、とくに格式の高い名門の中から選ばれることが多く、いわば“朝廷の顔”としてふさわしい家柄が重視されました。
それに対し右大臣には、それに続く有力家系から選ばれることが一般的で、「実務経験」と「家柄」のバランスが求められていたと言われています。左大臣ほど象徴的な立場ではないものの、右大臣も国家運営に欠かせない重要人物であるため、信頼できる名門から慎重に任命されていました。
こうした違いから、当時の社会がどれほど家柄を重要視していたのかがよくわかります。まさに“家柄社会”だった時代背景が、そのまま役職選びにも色濃く反映されていたといえるでしょう。
現代に置きかえてイメージしてみよう

歴史上の役職はイメージしづらいことも多いので、現代の組織にたとえて考えてみましょう。
特に平安時代の政治は現代とは仕組みも価値観も大きく異なるため、「結局どれくらい偉いの?」「何をしていたの?」というイメージがつかみにくいものです。
そこで、現代に身近な“会社組織”に置きかえてみると、双方の役割の違いや関係性がぐっとわかりやすくなります。
会社組織でたとえると
現代の会社で言えば、
・左大臣=副社長クラス(会社全体の方向性を示すポジション)
・右大臣=専務クラス(現場を動かし、方針を具体的に実行するポジション)
と考えるとイメージしやすいかもしれません。どちらも会社の中心にいる存在で、重要な意思決定に深く関わる立場です。
しかし、副社長が社長の意向を踏まえて会社全体の戦略を整える“トップ補佐”だとしたら、専務はその戦略に基づいて実務を動かす“現場指揮官”といった役割になります。
また、会社では副社長が対外的な場に出たり、社内の大きな方向性を決める場で発言力を持つことが多いのに対し、専務は各部署との調整や具体的な事業の運営など、会社の内部をスムーズに動かす役割が強いこともあります。この関係性は、平安時代の左大臣と右大臣にもそのまま重なります。
さらに、もし副社長が不在のときは専務が会社を支える中心になるように、平安時代でも左大臣がいない時期には右大臣が大きな存在感を発揮し、実質的に政務を取り仕切ることもありました。
つまり上下関係は明確でありながらも、実力や状況によっては右大臣が主役となるケースもあったという点も、現代の企業組織と似ていて興味深いところです。
どちらも会社の運営に欠かせないキーパーソンであり、その中でも左大臣の方が一段上、といった感じです。
まとめ:右大臣と左大臣の違いをおさらい

最後に、この記事のポイントを簡単に振り返っておきましょう。
・右大臣と左大臣は、どちらも平安時代の政治を支えた重要な役職
・基本の序列は「左大臣 > 右大臣」
・左大臣は方針を決める立場、右大臣はそれを支える運営・調整役
・「左が上」という価値観は、陰陽道や当時の世界観に由来
少しでも、平安時代の政治や日本史が身近に感じられたらうれしいです。必要に応じて、この本文を増やしたり削ったりして、ブログに合うボリュームに調整してくださいね。

